アスプロモンテの戦い
アスプロモンテの戦い(イタリア語: La Giornata dell'Aspromonte)は、1862年8月29日に行われた戦闘。 イタリア統一運動(リソルジメント運動)の一環に位置付けられている戦闘の一つである。 名称は、戦いが起こった場所の近くにある南イタリアのアスプロモンテ山(アスプロモンテ山塊とも)にちなむ。ローマの併合を急ぎたいジュゼッペ・ガリバルディがシチリア島からローマへ向かって進軍し、一方で教皇国との軍事的衝突を避けたいイタリア王国がエミリオ・パッラヴィーニ(イタリア語版)率いる王立のイタリア軍をガリバルディを阻止するために派遣、アスプロモンテで両者が軍事衝突した事件である[1]。この勝利で主導的役割を果たしたのは、1861年末にシチリア総監に就任しガリバルディを阻止することを決めたエンリコ・チャルディーニ将軍、およびチャルディーニに派遣され実際に王立軍を指揮したエミリオ・パッラヴィチー二大佐などである[2]。イタリア王国に併合する目的で、シチリア島からローマに向かって行進していたガリバルディの志願兵の軍隊を王国軍が撃破。そしてガンバリエから数キロ離れた場所で行われた戦闘で、ガリバルディは負傷し、捕虜となった。これによりガリバルディ率いる義勇軍は、イタリア王国軍とともにシチリアからローマへの行進をすることになり、時の教皇ピウス9世を追い出すこととなった。 背景1861年3月17日にヴィットーリオ・エマヌエーレ2世がイタリア王になったとき、新生・イタリア王国にはヴェネツィアとローマは含まれなかった。数十年後には「未回収のイタリア」と呼ばれることになるこれらの都市は、近代イタリア政治における恒常的な紛争の原因であり、イタリア王国にとって外交上の最優先課題であった。特に「ローマ問題」は、カミッロ・カヴールの演説をうけた1861年3月27日に、イタリア議会がローマが首都であると宣言したことで起こった。(カヴ―ルは翌年の6月6日に没)これは当時の教皇ピウス9世の意図に反し、ローマを世俗の政治権力による支配を維持するという宣言であった。 イタリア王国政府では、 この問題への対処についてさまざまな見方・対立があり、これにより1862年には首相のベッティーノリカソーリが辞任した。(ローマ側の詰問も彼には答えたともされる)彼の後継者である。ウルバーノ・ラタツィは、聖座に対する彼の態度は無礼なことで有名だったが、イタリア王国はラタツィ政権においてもローマ教皇領に対する低姿勢の外交を堅持した。(ラタツィは、1850年代にはサルデーニャ王国の内務大臣として、宗教企業の抑圧政策を実行したメンバーに名を連ねていた) 一方、ジュゼッペ・ガリバルディ将軍はシチリア島に到着し、ローマでの行進を目的として軍隊を編成し始めた。フランス(当時のイタリアに対し最も影響力のある同盟国であった)と教皇の非妥協的な反応は、イタリア政府に介入を決意させる要因であった。 8月3日、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世はガリバルディの「罪あるせっかち」を公式に非難し、ラッタッツィはエンリコ・チャルディーニ将軍の命令で、ガリバルディを止めるために王立軍を派遣した。
最終的には、ガリバルディ将軍が自身個人や民主政治への人気、そして革命的なイニシアチブの再開の可能性を試そうと島に上陸したといえるだろう。パレルモとマルサラでの試行に熱心に取り組んだのは、2年前にマルサラから始まる新しい遠征を指揮することを決めるためにであった。おそらく目標は成熟し、その間に、それはマルサラで、「ローマまたは死のどちらか」が群衆から叫ばれた。ガリバルディはメッセージの即時性に打たれ、彼のモットーとしてそれを仮定した。 当局は、特定の命令を受けずに、彼に3つの列をカターニアに持ち込ませ、義勇兵を集めた。 戦い余波大衆文化の中で脚注
参考文献
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