ミュリナ (英語版 ) のアガティアス (Agathias、ギリシャ語 : Ἀγαθίας )、ないし、アガティアス・スコラスティコス (Agathias Scholasticus、Ἀγαθίας σχολαστικός 、530年 ころ[ 1] 、ないし、536年 ころ[ 2] [ 3] - 582年 ころ[ 1] [ 2] [ 3] 、ないし、594年 )は、現在のトルコ 領に位置する小アジア 西部のアイオリス の都市ミュリナ出身とされる、古代ギリシア の詩人 、東ローマ帝国 皇帝 ユスティニアヌス1世 の統治下にあった552年 から558年 にかけての時期の歴史について記録を残した主要な歴史家 [ 2] 。
経歴
アガティアスはミュリナに生まれた[ 3] 。父はメムノニオスといった。修辞学者であったとされる[ 3] 。母はおそらくペリクレイアであったと推定される。アガティアスの男きょうだいのひとりは、一次資料において言及されているが、その名は伝えられていない。女きょうだいのひとりはエウゲニアという名であったことが知られている。『スーダ辞典 』によれば、アガティアスは東ローマ帝国 皇帝 ユスティニアヌス1世 の統治下において活動し、パウロス・シレンティアリオス (英語版 ) 、マケドニオス・ウラティコス (英語版 ) 、トリボニアヌス らの同時代人であったとされる[ 4] 。
アガティアスは、大地震でベリュトス(ベイルート )が破壊された際に、法学生としてアレクサンドリア にいたと述べている[ 1] 。ベリュトスの法学校 (英語版 ) は、東ローマ帝国が設けていた3つの公式の法学校のひとつであった(533年 当時)。その後、壊滅的な地震 (英語版 ) が起きたため[ 5] [ 6] [ 7] 、学生たちはシドン に移動させられた[ 8] 。551年 当時、法学者であったアガティアスはまだ20代前半だった可能性もあり、そこから彼の生年も530年 ころと考えられている[ 1] 。
アガティアスは、地震の直後に、アレクサンドリア からコンスタンティノープル へ移動した様子についても記録を残している。途中、コス島 に立ち寄り、そこで「地震がもたらした破壊の惨状を目撃した」という。4年間にわたって法律を学んだ後、アガティアスは、学友たちとともに、 Sosthenium で大天使 ミカエル に捧げものをして「将来の繁栄」を祈った[ 1] 。
アガティアスは、554年 にコンスタンティノープル へ戻り、訓練期間を終えて、法廷でアドボカタス (「スコラスティコス」)として実務に就いた。エピファニアのヨアンネス (英語版 ) は、アガティアスが首都で法務に就いていたことを報告している。エヴァグリオス・スコラスティコス (英語版 ) とニケフォロス・カリストス・カントポウロス (英語版 ) は、アガティアスのことを修辞家 、演説 家と表現していた。『スーダ辞典 』や、ニキウのヨアンネス (英語版 ) の部分では、アガティアス・スコラスティコス (「スコラ学 者のアガティアス」の意)として言及されている[ 1] [ 9] 。アガティアスは、スミュルナ (英語版 ) の事実上の政務官 である pater civitatis(「市の父」の意)も務めた。彼はこの町のために、公衆便所を建設させたという。彼は、自分の書いた記述の中でこの施設に言及していたが、その建設に自分が関わったことは記述しなかった[ 1] [ 10] 。
ミュリナの町は、アガティアスとその父メムノニオス、アガティアスの名が残されていないきょうだいのひとりを讃えて像を立てたとされる。同時代人の間では、彼はもっぱらアドボカタス (弁護士 )、詩人 として知られていた。歴史家 としてアガティアスに言及した記述はほとんどない[ 1] 。
アガティアスの私生活を伝えるものはほとんど伝わっておらず、残されているのはもっぱら詩である。その中には、ペットの猫がヤマウズラ を食べた話などもある。別の記録 (Gr.Anth. 7.220) によれば、アガティアスはヘタイラ (高級娼婦)だったコリントのライス の墓を見るために、コリントス を訪れたらしく、「エフュラ (Εφύρα , Ephyra)」という詩的な雅名でこの都市に言及している。彼の生涯に関するこれ以上の情報は伝わっていない[ 1] 。
後述のように、没年は推定の根拠はあるが、確定的ではない。死没地は、コンスタンティノープル といわれる[ 3] 。
著作
アガティアスは文学を好み、詩人として最もよく知られていた。彼の著作『デフニアカ (Δαφνιακά , Daphniaca )』は、「愛と恋」についてのヘクサメトロス(六歩格) 形式の短い詩を集めた詩集で、9巻から成っていたが[ 3] 、今に伝わっているのは序文だけである[ 1] 。彼はまた、ユスティヌス2世 (在位:565年 – 578年 )の治世の初期に、100以上のエピグラム(警句) を編纂し、友人たちが編纂したものと合わせて『新警句全集 (Κύκλος των νέων επιγραμμάτων )』として出版し、これは『アガティアスの全集 (Κύκλος του Αγαθία )』とも称された。その内容の大部分は、『ギリシア詞華集 (Anthologia Graeca )』(別名『パラティン詞華集』)に収録され[ 2] [ 3] 、特にマクシムス・プラヌデス (英語版 ) が編纂した版には、他所では見られないものも含まれている[ 1] 。 アガティアスの詩は、相当の趣きがあり、優雅なものである。
アガティアスは、パウサニアス の『ギリシア案内記 (Ἑλλάδος περιήγησις ) への注釈の書き込みもおこなった。
同じくアガティアスの代表作と評価されているのが、ユスティヌス2世 の治世から書き起した『ユスティニアヌス帝の治世について (Περί της Ιουστινιανού βασιλείας )』 、通称『歴史』である。彼は執筆の動機に就いて、単に「自分の時代の移ろい行く出来事」を、記録もされないまま流されて失いたくないからだと述べている。執筆に際しては友人たちの激励があったとも述べており、特にエウテュチアノスという人物の名を挙げている[ 1] 。5巻から成った『ユスティニアヌス帝の治世について』 は、プロコピオス の記述を継承する形で、その文体を真似たもので、552年 から558年 にかけて時期については権威ある主要な資料となっている。そこでおもに扱われているのは、帝国軍がナルセス 将軍の下で、ゴート族 、ヴァンダル族 、フランク族 などと戦い続けた記録である[ 11] 。
この著作は現存するが、もともと未完であったと考えられている[ 2] 。その記述からは、アガティアスがユスティヌス2世 の治世を後半も扱った上で、フン族 の衰退まで言及する構想だったことがうかがえるが、現存するものには、そのいずれも言及がない。保護者 メナンドロス は、アガティアスがこの歴史書を完成させる前に死去したことを示唆している。この書物に記録された最後の事件は、ペルシア王 ホスロー1世 (在位:531年 – 579年 ) の死である。これは、アガティアスがティベリウス2世コンスタンティヌス (在位:578年 – 582年 ) の時代まで生きていたことを意味している。皇帝マウリキウス (在位:582年 – 602年 ) への言及はいっさいないので、アガティアスは582年 より前に死去したのであろう[ 1] 。
保護者メナンドロス は、アガティアスの歴史を書き継ぎ、558年 から582年 にかけての記述を残した。エヴァグリオス・スコラスティコス (英語版 ) は、アガティアスに簡単に言及しているが、『歴史』の全篇を見ることはできなかったようである。
歴史家としての評価
「彼の記したページには哲学的な考察が豊かに盛り込まれている。たとえその情報の集め方が、プロコピオス のように軍事や政治の高い位における経験に基づくものではなく、目撃証言に依拠したものだとしても、彼は有能で、信頼に値する。彼は喜々として異人たちの風俗、習慣、信仰を描き、また、当時の大きな禍であった地震、疫病、飢饉が彼の関心を引いたが、その上で彼は「都市、城塞、河川や、哲学者、下士官たちについても、数多くの記述を残す」ことを忘れなかった。彼が伝えた事実の多くは、他所では見出せないものであり、彼が、彼が記述した時期についての貴重な権威ある記述だと常々評価されてきた。」—『カトリック百科事典 』
『ブリタニカ百科事典第11版 』によれば、「この著者は、正直さ、公平さを自負しているが、事実についての判断力や知識には欠けている。しかし、この著作は、扱っている出来事の重要性から、貴重なものとなっている」としている。また、ブリタニカは、エドワード・ギボン が、アガティアスを「詩人にして修辞家」、プロコピオスと「政治家にして兵士」と対照的に評したことを記している[ 11] 。
キリスト教 の立場に立つ批評家たちは、アガティアスのキリスト教信仰が表面的なものであることを指摘している。「彼がキリスト教徒だということを疑う理由はいろいろあるが、彼の時代に至ってなお純然たる異教徒だったとは考えにくい。」(『カトリック百科事典 』) 「公然たる異教徒であれば、ユスティニアヌスの時代に彼ほどの公職を得ることはなかったであろうが、アガティアスの教養の深さと広さは、キリスト教的なものとは思われない。」(アンソニー・カルデリス (Anthony Kaldellis))
アガティアスの『歴史』2章31節は、529年 にユスティニアヌス1世 が、アテナイ に再興されていたプラトン の(実際には新プラトン主義 の)アカデメイア を閉鎖させたことを伝える、唯一の権威ある典拠となっているが、この一件は古典古代 の終焉を告げるものとしてしばしば言及される[ 12] 。四散することになった新プラトン主義者たちは、持ち運び得るだけの蔵書の大部分とともにサーサーン朝 ペルシア の首都であったクテシフォン に一時的に逃れ、以降は、思想の自由 の歴史において重要な文書のひとつとなった、身の安全を保障する協定の下で、エデッサ に移り、同地は、やがて1世紀ほど後になると、イスラム教徒 の思想家たちがギリシアの文化に触れ、その科学や医学に関心を寄せる拠点のひとつとなった。
アガティアスの『歴史』は、イスラム教 化される以前のイラン についての情報源にもなっており、要約すると「フワダーイ・ナーマグ (英語版 ) の伝統についての最も初期の具体的な証拠」とされており[ 13] 、この伝統は後にフェルドウスィー の『シャー・ナーメ 』の基礎となり、タバリー の『諸使徒と諸王の歴史』 のイランに関する記述の大部分もこの伝統に依拠している。
480年 に皇帝ゼノン が興じ、あまりにも不運なサイコロの目が出たことから530年 ころにアガティアスが記録したタブラ の一局面。このゲームは、振るサイコロの数が3個であること以外は、バックギャモン とほぼ同一のものである[ 14] 。
アガティアスは、バックギャモン のルールに関する最も古い記録を残しており、このゲームを、これは現代ギリシャ においてもバックギャモンの呼称となっているタブラ (τάβλη . tabula) と呼んだが、これは皇帝ゼノン が興じたゲームにおける、不運な展開について述べる中でのことであった。ゼノンは、駒が7つあるポイント1カ所、2つあるポイント3カ所のほか、駒が孤立したブロットのポイント2カ所に駒を展開しており、敵の駒にヒットされ盤上から取り除かれる虞れがあった。ここ局面でゼノが出した3つのサイコロの目は、2と5と6であった。各ポイントに置かれた双方の駒の配置から、ルールに則って3つのサイコロの目をすべて使う動かし方は駒2つが積まれたポイント3カ所すべてからひとつずつ駒を動かしブロットにしてしまうというものであり、そうなったポイントは敵にヒットされる虞れにさらされ、ゼノンにとって状況は壊滅的となった[ 14] [ 15] 。
『歴史』のエディション、翻訳
クリストフォロ・ペルソナ (Cristoforo Persona) がラテン語に翻訳し、教皇シクストゥス4世 に献呈した『歴史』の冒頭部分。
Bonaventura Vulcanius (1594) - ボナヴェントゥラ・ヴルカニウス
Barthold G. Niebuhr , in Corpus Scriptorum Historiae Byzantinae (Bonn, 1828) - バルトホルト・ゲオルク・ニーブール
Jean P. Migne , in Patrologia Graeca , vol. 88 (Paris, 1860), col. 1248–1608 - ジャック・ポール・ミーニュ :ニーブールのエディションに基づく
Karl Wilhelm Dindorf , in Historici Graeci Minores , vol. 2 (Leipzig, 1871), pp. 132–453. - カール・ヴィルヘルム・ディンドルフ
R. Keydell, Agathiae Myrinaei Historiarum libri quinque in Corpus Fontium Historiae Byzantinae , vol. 2, Series Berolinensis, Walter de Gruyter , 1967
S. Costanza, Agathiae Myrinaei Historiarum libri quinque (Universita degli Studi, Messina, 1969)
J. D. Frendo, Agathias: The Histories in Corpus Fontium Historiae Byzantinae (English translation with introduction and short notes), vol. 2A, Series Berolinensis, Walter de Gruyter , 1975
P. Maraval, Agathias, Histoires, Guerres et malheurs du temps sous Justinien (French), Paris, Les Belles Lettres, 2007, ISBN 2-251339-50-7
A. Alexakis, Ἀγαθίου Σχολαστικοῦ, Ἱστορίαι (in Greek) Athens, Kanakis Editions, 2008, ISBN 978-960-6736-02-5
脚注
^ a b c d e f g h i j k l m Martindale, Jones & Morris (1992), pp. 23–25
^ a b c d e ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『アガティアス 』 - コトバンク
^ a b c d e f g 日本大百科全書(ニッポニカ)『アガティアス 』 - コトバンク - 執筆:和田廣
^ Suda s.lem. Agathias (Alpha, 112: Ἀγαθίας )
^ Profile of Lebanon: History Archived January 28, 2011, at the Wayback Machine . Lebanese Embassy of the U.S.
^ About Beirut and Downtown Beirut , DownTownBeirut.com. Retrieved November 17, 2007.
^ History of Phoenicia , fulltextarchive.com. Retrieved November 17, 2007.
^ “Saida (Sidon) ”. Ikamalebanon.com. 2009年6月28日時点のオリジナル よりアーカイブ。2009年5月5日 閲覧。
^ Perseus.Tufts.edu , Rhetor, Henry George Liddell, Robert Scott, A Greek-English Lexicon , at Perseus
^ Sivan, H.S. (1989年). “Town, country and province in Late Roman Gaul ” (PDF). uni-koeln.de . 2019年5月31日 閲覧。
^ a b この記述にはアメリカ合衆国 内で著作権が消滅した 次の百科事典本文を含む: Chisholm, Hugh , ed. (1911). "Agathias ". Encyclopædia Britannica (英語). Vol. 1 (11th ed.). Cambridge University Press. p. 370. This cites as authorities:
Editio princeps , by B. Vulcanius (1594)
the Bonn Corpus Scriptorum Byz. Hist. , by B. G. Niebuhr (1828)
Migne , Patrologia Graeca , lxxxviii.
L. Dindorf, Historici Graeci Minores (1871)
W. S. Teuffel , "Agathias von Myrine," in Philologus (i. 1846)
C. Krumbacher , Geschichte der byzantinischen Litteratur (2nd ed. 1897).
^ Hadas, Moses (1950). A History of Greek Literature . Columbia University Press. p. 273. ISBN 0-231-01767-7 . https://books.google.com/books?id=dOht3609JOMC&pg=PA273
^ Averil Cameron, "Agathias on the Sasanians" in Dumbarton Oaks Papers , 23 (1969) p. 69.
^ a b Austin, Roland G. "Zeno's Game of τάβλη", The Journal of Hellenic Studies 54:2, 1934. p. 202-205.
^ Robert Charles Bell, Board and table games from many civilizations , Courier Dover Publications, 1979, ISBN 0-486-23855-5 , p. 33–35.
関連文献
A. Alexakis, "Two verses of Ovid liberally translated by Agathias of Myrina (Metamorphoses 8.877-878 and Historiae 2.3.7)", in Byzantinische Zeitschrift 101.2 (2008), pp. 609–616.
A. Cameron, 'Agathias on the Sasanians', in Dumbarton Oaks Papers , 23 (1969) pp 67–183.
A. Cameron, Agathias (Oxford: Clarendon Press, 1970). ISBN 0-19-814352-4 .
A. Kaldellis, 'Things are not what they are: Agathias Mythistoricus and the last laugh of Classical', in Classical Quarterly , 53 (2003) pp 295–300.
A. Kaldellis, 'The Historical and Religious Views of Agathias: A Reinterpretation', in Byzantion. Revue internationale , 69 (1999) pp 206–252.
A. Kaldellis, 'Agathias on history and poetry', in Greek, Roman and Byzantine Studies , 38 (1997), pp 295–306
Martindale, John R.; Jones, A.H.M.; Morris, John (1992), The Prosopography of the Later Roman Empire, Volume III: AD 527–641 , Cambridge University Press, ISBN 0-521-20160-8 , https://books.google.com/books?id=fBImqkpzQPsC
W. S. Teuffel, 'Agathias von Myrine', in Philologus (1846)
C. Krumbacher, Geschichte der byzantinischen Litteratur (2nd ed. 1897)
この記事にはパブリックドメイン である次の百科事典本文を含む: Herbermann, Charles, ed. (1913). "Agathias ". Catholic Encyclopedia . New York: Robert Appleton Company.
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