かねやす百貨店かねやす百貨店(かねやすひゃっかてん)とは、かつて小倉市(現在の北九州市)に存在した百貨店である。小倉市で2番目に開業した百貨店であり[1][2]、かつては井筒屋、菊屋百貨店(のちの小倉玉屋)とともに小倉を代表する百貨店であった[3]。 歴史創業は文久年間。創業当初は「かねやす」として米穀店や金の目利きを行っており、店も田町にあったが[3]、その後魚町に移り慶応年間に呉服商を開始する。長州戦争や明治維新の動乱の間も、同店はこの地にあり続けた[3]。 明治28年(1895年)には娘婿であった米谷勘吉が暖簾分けして「新米谷呉服店」を創業、後に魚町銀天街の呉服店「新米谷」となった[4]。 大正9年(1920年)3月には三代目安次郎が「かねやす百貨店」としてデパートを創業[3]。当初は木造4階建で、食堂も併設されていた[3]。昭和11年(1936年)11月には新たに鉄筋7階建で耐火造[5]の新館が完成[3]。新館は当時の小倉では最も高い建物であったといわれ[6]、本館・新館の売り場面積は合わせて4,096.3平方メートルとなった[5]。呉服店の時代から市民の信頼を得ていたこともあり、かねやす百貨店は順調に業績を伸ばした[3]。戦時中には街の防空のため、屋根の部分に防空監視哨が置かれた[6]。この防空監視哨は現存しており[6]、隣の立体駐車場などから見ることができる。 1952年(昭和27年)11月30日、後に「魚町大火」と呼ばれる[7]火事で死者は出なかったものの、魚町商店街の店舗22軒が全焼、2軒が半焼し、合計で51戸が被災、かねやす百貨店でも5人の怪我人を出した[5]。 社員の努力により2週間後には営業を再開したが[3]、火事の損害が経営に与えた打撃は大きく、ついに昭和29年(1954年)10月に閉店し[3]その後破産。米穀店として創業して以来の約100年の歴史に幕を下ろした。その後新館(建物自体は焼け残った)は雑居ビル「ワシントンビル」となり[6]、現在はドラッグイレブン小倉魚町店やカフェ、事務所等が入居している。 脚注
参考資料
関連項目外部リンク
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