ZIS-5ZIS-5(露:ЗИС-5)は、1933年10月からソビエト連邦のZIS工場(現在のジル社)で生産されていた4×2輪駆動の3トントラックである。アメリカ合衆国のオートカー社が開発した「モデルCA」トラックのほぼ完全なコピーである。 開発1931年、AMO(露:Автомобильное Московское Общество、モスクワ自動車会社の意味)のトラック工場は、アメリカのA・J・ブラント社の協力のもと設備の更新と拡張を行い、新たにAMO-2 トラックの生産を開始した。AMO工場は、これまでイタリアのフィアット社製F-15 トラックのコピーでソ連初の国産トラックだったAMO-F-15を生産しており、AMO-2はその後継車として位置づけられた。 AMO-2の改良は引き続き行われ、間もなくAMO-3やAMO-4といった新しいモデルが登場した。1933年にAMO工場はスターリン工場(露:Завод Имени Сталина、ラテン文字表記の例:Zavod Imeni Stalina、ZiSまたはZISと略される)に再編され、同年夏にZIS-5の最初の原型車が完成した。 生産ZIS-5の生産は1933年10月1日に開始された。ZIS-5は成功を収め、1930年代-1950年代にかけてゴーリキー自動車工場(GAZ)製の1.5トントラック"GAZ-AA"と共にソ連の主要トラックとしての地位を占めることとなった。第二次世界大戦においてはソ連赤軍でも使用され、独ソ戦の開戦時には10万4,200両のZIS-5が軍用として配備されていた。 1941年、ナチス・ドイツのソ連侵攻(バルバロッサ作戦)を受けてモスクワのZIS工場の生産ラインは停止され、ヴォルガ川に面するウリヤノフスクと、ウラルのチェリャビンスク地域に位置するミアスへの疎開が行われた。ウリヤノフスクのUASZIS工場(ウリヤノフスク自動車工場、UAZ)は1942年2月-1944年まで、ウラルZIS工場では1944年7月-戦後の1955年まで、それぞれZIS-5 トラックの生産を行った。1942年4月にはモスクワでの生産が再開され、1948年にエンジン換装型のZIS-50が登場するまで続けられた。 1955年にはウラルZIS工場も独自にZIS-5の改良型を開発した。これは、新型エンジンと楕円形のフェンダーを持ち、ウラルZiS-355あるいは単にZIS-355と呼ばれた。 ZIS-5V1941年、戦争による資源の欠乏のため、ZIS-5は設計変更を余儀なくされた。丸みを帯びたプレス製のフェンダーは曲げ加工で作られた平坦なものへの変更され、キャビンや足場も木製に交換、前輪ブレーキは廃止され、車体後部の扉は開閉するだけのものになった。中には右側のヘッドライトやバンパーを欠いたものもあった。 このように単純化されたモデルはZIS-5Vと名づけられ、1942年5月にウリヤノフスクで生産が開始された。後にはモスクワやミアスでも製造された。生産数は全工場合わせて100万両前後に達し、このうち53万2,311両がZIS工場で作られた。戦時中に生産されたZIS-5は各モデルを合わせて8万3,000両程度だった。 軍事利用第二次世界大戦中、ZIS-5はあらゆる戦線で使用され、その簡素かつ故障しにくい構造が高く評価された。ZIS-5は物資の輸送の他に、火砲牽引車や兵員輸送車(荷台に5つのベンチシートを設置することで25人の兵士を乗せることができる)・燃料輸送車・作業車・救護車・火器運搬車としても使用され、兵士からは3トンのペイロードに因んでトリョーフトンカ(露:Трёхтонка)と呼ばれた。 1933年-1943年にかけての期間、ZIS-5はGAZ-AAに次いで2番目に多用されたソ連の軍用トラックとなった。1943年-1944年にかけ、レンドリース法によって大量のトラックがアメリカから供与されると、GAZ-AAは後方任務に回されることが多くなったが、ZIS-5は第1線で働き続けた。 ZIS-5は、1941年-1944年まで続いたレニングラード包囲戦において、凍結したラドガ湖上にレニングラード(現サンクトペテルブルク)への唯一の補給路(命の道)を形成するのに大きな役割を果たした。 ソ連国外での使用1934年にトルコに100両が輸出され、続いて、アフガニスタン、イラク、イラン、スペイン、中国、ラトビア、リトアニア、エストニア、モンゴル、ルーマニアが輸入を行った。 また、フィンランドは1939年-1940年の冬戦争で鹵獲した車両を、ドイツは独ソ戦で鹵獲した車両をそれぞれ運用している。 形式・バリエーション
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諸元
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