神東山 忠也(じんとうざん ちゅうや、1913年1月28日 - 1983年6月23日[1])は、現在の東京都中央区出身で春日野部屋に所属した大相撲力士。本名は神谷 信義(かみや のぶよし)。現役時代の体格は170cm、135kg。最高位は東前頭4枚目(1941年5月場所)。得意手は右四つ、寄り。
略歴
中央商業学校(現・中央学院大学中央高等学校)卒業後、春日野部屋に入門し、1932年5月場所、「神武山」の四股名で初土俵を踏む。1937年5月場所で十両に昇進。1939年1月場所、新入幕。入幕2場所目の5月場所、四股名が初代天皇の神武天皇からきているため、「神東山」に改名。幕内の中位から下位で取り、1946年11月場所で十両に落ち、この場所13戦全敗を記録した。1947年6月場所全休し、この場所限りで引退、年寄・15代岩友を襲名、春日野部屋付き年寄となる。1978年1月、日本相撲協会を停年退職する。
エピソード
- 大きな太鼓腹が特徴で、この太鼓腹を生かして鋭い寄り身が武器だった。しかし、小兵や動きの速い相手を苦手にしていた。
- 1943年11月場所(本場所でなく、大阪での開催)中、出稽古先で、双葉山に速攻で土俵外へ出された神東山は「初っ切りみたいな相撲を取るなよ」と、本人にそのつもりは無かったにせよ心の緩みを指摘された[2]。
- 中国語では「チン・トン・シャン」と都々逸の前びきのような読みだが、都々逸が得意だったという[3]。
主な戦績
- 幕内在位:15場所
- 幕内成績:89勝109敗2休 勝率.449
- 現役在位:28場所
- 通算成績:154勝157敗13休 勝率.495
- 各段優勝
場所別成績
神東山 忠也
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春場所 |
夏場所 |
秋場所 |
1932年 (昭和7年) |
x |
(前相撲) |
序ノ口 2–4 |
1933年 (昭和8年) |
東序ノ口10枚目 優勝 6–0 |
西序二段8枚目 4–2 |
x |
1934年 (昭和9年) |
東三段目21枚目 3–3 |
西三段目15枚目 4–2 |
x |
1935年 (昭和10年) |
西幕下23枚目 5–6 |
東三段目3枚目 4–2 |
x |
1936年 (昭和11年) |
西幕下18枚目 6–5 |
西幕下11枚目 7–4 |
x |
1937年 (昭和12年) |
東幕下2枚目 7–4 |
東十両9枚目 6–6–1 |
x |
1938年 (昭和13年) |
東十両9枚目 11–2 |
西十両筆頭 9–4 |
x |
1939年 (昭和14年) |
東前頭12枚目 7–6 |
東前頭10枚目 5–10 |
x |
1940年 (昭和15年) |
西前頭17枚目 8–7 |
西前頭12枚目 10–5 |
x |
1941年 (昭和16年) |
東前頭9枚目 8–7 |
東前頭4枚目 5–10 |
x |
1942年 (昭和17年) |
西前頭9枚目 4–11 |
西前頭14枚目 8–7 |
x |
1943年 (昭和18年) |
東前頭16枚目 10–5 |
西前頭7枚目 4–11 |
x |
1944年 (昭和19年) |
東前頭14枚目 5–10 |
西前頭17枚目 4–6 |
西前頭18枚目 6–4 |
1945年 (昭和20年) |
x |
東前頭12枚目 2–5 |
東前頭15枚目 3–5–2 |
1946年 (昭和21年) |
x |
x |
西十両2枚目 0–13 |
1947年 (昭和22年) |
x |
西十両15枚目 引退 0–0–10 |
x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
幕内対戦成績
※カッコ内は勝数、負数の中に占める不戦敗の数。
改名
- 神武山 忠也 (じんむざん ちゅうや)1932年月5場所-1939年1月場所
- 神東山 忠也 (じんとうざん - )1939年5月場所-1947年6月場所
出典
- ^ 相撲人名鑑(神東山 忠也)
- ^ ベースボール・マガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(5) 時津風部屋』p51
- ^ 『土俵の砂が知っている~涙と笑い・二十五年の生活記録~』p55。
参考文献
田子ノ浦忠雄著『土俵の砂が知っている~涙と笑い・二十五年の生活記録~』、一水社、1965年
関連項目