松山深蔵松山 深蔵(まつやま しんぞう、天保8年2月11日(1837年3月17日) - 元治元年7月21日(1864年8月22日))は土佐国高岡郡津野山郷北川村庄屋(高知県高岡郡東津野村北川)出身の郷士。幼名は金三郎。名は正夫、熊蔵。号は津山。 経歴庄屋の二男に生まれたため家業を継ぐことができず、高知城城下にて医術を学ぶ。一時は半山郷で開業するが、千屋菊次郎とともに大坂へ医学を学びにいく。 文久2年(1862年)6月に江戸へ学問修行の名目で自費で江戸に行き土佐勤王党に147番目に加盟。勤王党員として江戸や京で活動。同年10月姉小路公知の衛士として江戸へ上る。 文久3年(1863年)4月、関東の情勢を探った後土佐藩の政局変化に伴い帰国。9月に千屋とともに土佐を出て(脱藩の可能性が濃厚)、長門国の三田尻を経由し、中岡慎太郎率いる忠勇隊の一員として京に入る。禁門の変に敗れ、天王山にて真木保臣らとともに自決した。なお、このとき千屋菊次郎も共におり、運命を共にした。享年28。 エピソード
脚注
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