小松耕輔
小松 耕輔(こまつ こうすけ、1884年〈明治17年〉12月14日 - 1966年〈昭和41年〉2月3日[2])は、明治 - 昭和期の日本の作曲家・教育家・評論家。秋田県由利郡舘合村(後の玉米村、現在の由利本荘市)生まれ。東京音楽学校卒業。号は玉巌(ぎょくがん)。 経歴1901年に上京して東京音楽学校選科に入学。1903年に同校本科に進み、ヴァイオリンを幸田延、ピアノと作曲をヘルマン・ハイドリヒ、和声法をノエル・ペリーに師事。1906年に東京キリスト教青年会会館で歌劇「羽衣」を初演[3]。同年、同校を卒業し、研究科でアウグスト・ユンケルに声楽を師事。学習院講師。1920年に渡仏。パリ音楽院の聴講生として、シャルル=マリー・ヴィドール、ポール・フォーシェ、ポール・ヴィダル、ヴァンサン・ダンディに作曲を師事した[2]。1923年に帰国。 1927年、国民音楽協会を設立し、日本で初めて合唱コンクールを開催するなど、合唱を中心とする社会音楽の普及に尽力した。1928年には日本作曲者協会を設立し、理事長に就任。また、学習院大学、東京女子高等師範学校・お茶の水女子大学教授、日本大学教授、東邦音楽短期大学教授、東洋音楽短期大学講師などを歴任するとともに[1]、大日本音楽著作権協会(現在のJASRAC)理事として著作権擁護に尽力した。 作曲家としては「母」「芭蕉」など、歌曲を中心に手がけ、森鷗外の詩「沙羅の木」にも曲をつけている。[4] 1978年10月4日、出生地である東由利町立東由利中学校校庭に「小松耕輔音楽顕彰碑」が建立された。 弟に作曲家の小松平五郎[5]、音楽家で仏文学者の小松清[6] [7] がいる。清はミュッセの翻訳や、山梨県立甲府第一高等学校、新潟県立見附高等学校等の校歌の作曲も手掛けた。 主な作品器楽曲ピアノ独奏曲
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