天正日記 (内藤清成)『天正日記』(てんしょうにっき)は、徳川家康の家臣・内藤清成が著したとされる日記形式の文書。天正18年(1590年)5月18日[1]から11月[2]にかけての記録で[1][3]、徳川家康の江戸入府前後の状況を内容に含む。ただし、この文書は偽書説が「有力」[4]ないし「定説」[1]とされる。 解説『天正日記』によれば、内藤清成は家康の江戸入りに先んじて江戸に派遣され、江戸城下の整備にあたったとされている[5]。本文書は、家康の江戸入りの状況[1]、あるいは当時の江戸を知る貴重な史料とされてきた[6]。たとえば、天正18年(1590年)に大久保忠行(藤五郎、主水)が江戸に最初の上水である「小石川上水」[注釈 1]を引いたことは本書の記述に拠る[3](神田上水参照)。 この文書は高遠藩主内藤家に秘蔵されたもので[3]、栗原信充(1794年 - 1870年)が影写(写し書き)したものを入手した小宮山綏介(号は南梁、諱は昌玄。1830年 - 1896年)が、校訂と付註を施した上で[2]、1883年(明治16年)に『校註天正日記』として刊行した[1]。また『続々群書類従』巻五に「天正日記」として収録された[1]。内藤家にあったという原本は現在に伝わっていない[6]。 偽書説『東京市史稿』編纂時に本書の信憑性が検討されたが、『東京市史稿 上水編第一』では、伝来状況がはっきりしないこと[3]、同時代史料(『伊達政宗記録事蹟考記』『家忠日記』)との内容の齟齬[3]や、使用されている語彙に疑義があること[3]が指摘されている。 1925年(大正14年)に田中義成は著書『豊臣時代史』において一章を割き[10]、『天正日記』を偽書と断じている[11][4][注釈 2]。 伊東多三郎は「天正日記と仮名性理」(1964年)[注釈 3]において『天正日記』を「用いてはならない書」として偽書説を強調し、無批判な引用が行われていることに苦言を呈した[6]。一方、水江漣子は『江戸市中形成史の研究』(1977年)において、後年にさまざまな資料をもとに編纂されたと推測され、天正年間の事実ではないとしても、地名の由来などについては時代を下げれば妥当な記述もあるとし、一定の批判の上で資料価値を認める姿勢をとっている[6][注釈 4]。 脚注注釈出典
参考文献
外部リンク
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