佐々井秀嶺
佐々井 秀嶺(ささい しゅうれい、1935年8月30日 - )は、インドの僧。インドラ寺住職。インド名はアーリヤ・ナーガールジュナ (Bhadant-G Arya Nagarjuna Shurai Sasai)。なお、本名については Bhadant Arya Nagarjuna Surai Sasai、Bhadant Nagarjun Surai Sasai などの表記もある。インド国籍取得前の本名は佐々井 実。 概要インドで活動している日系インド人(一世)の僧である。ナーグプルのインドラ寺(インドラ・ブッダ・ヴィハール)にて住職を務めている。カースト未満の身分のダリット(不可触賤民)の人々を仏教へと改宗させるアンベードカルのインド仏教復興運動の中心人物の一人となっている。 略歴
受賞歴
活動・功績僧侶としての日常的な勤行や布教、一般信徒の求めに応じての冠婚葬祭や子供の名付け、インド各地での仏教式典や大改宗式の導師などの他に、下記のような活動を行っている。 社会事業仏教寺院、福祉施設の建設運営ナーグプル一帯において多数の寺院、学校、診療所、孤児院、老人ホームなどを建設、運営している。資金は托鉢と寄付に依っている。 マンセル遺跡・シルプル遺跡発掘佐々井が行う事業のひとつに、考古学上その所在が謎となっている南天鉄塔の探究がある。 若き日の佐々井がナーグプルに辿り着いて数年後、マンザー(マンセル)に「ナーガルジュナ(龍樹))連峰」という地名があるのを聞き、調査したところ仏像などいくつかの仏教遺跡の痕跡を発見する。この地に仏教遺跡があると確信を深めた佐々井は長年に亘り調査を続け、1998年に龍樹遺跡発掘委員会を設立。中央政府と共同で発掘調査を進め、数箇月後に巨大な仏塔を発見した。その後も僧院跡などが次々と発掘されている。佐々井はこの地に南天鉄塔があるのではないかと考えており、同様に龍樹と関わりがあるとされるシルプル遺跡の発掘も行っている。 現在、両遺跡ともに発掘調査が進み、観光地としても名高い。 政府内活動インド政府少数派委員会(マイノリティ・コミッション)ヒンドゥー教勢力が圧倒的なインドにおいて、少数派となる各宗教(キリスト教、イスラム教、シーク教、仏教など)の発言権を確保するため、インド政府に設置されている委員会の仏教徒代表として、佐々井は2003年からの3年間就任している。 その間、仏教徒の権利確保と仏教遺跡の管理権返還に関する政府内部への働きかけ、各州の少数派委員会にて仏教徒代表のいないケースへの提言を行っている。また就任中、インド国内の祝祭日に関する提言を行い、仏陀生誕日、アンベードカル誕生日および入滅日がいくつかの州で休日に制定された。 大菩提寺管理権返還運動インド東部ビハール州ブッダガヤの大菩提寺は、仏陀成道の史実があるにもかかわらず、長らくヒンドゥー教徒の手により管理され、ヒンドゥー教の儀式および装飾が行われ続けていた。 佐々井はこの現状に抗議し、大菩提寺の仏教徒への解放および関連する法律の改正を求め行動を起こしている。ここでは主に1992年から1998年の間顕著に見られる大規模デモ行動についてまとめている。これら運動は、僧侶、一般信徒合わせて数万人規模になることがしばしばある。
1992年より集中して行われてきた一連の大菩提寺解放運動は、1998年10月13日をもって一旦終結する。現在、大菩提寺の管理は仏教徒が実質的に行っている。しかし寺院管理の法改正の要求は通っておらず、その後も形を変えてしばしば運動は行われている。2002年、大菩提寺が世界遺産に登録されたことをきっかけに、国連本部より招待を受け、この年のジュネーブでの国連特別総会およびパリのユネスコ本部にて国際社会に向けてアピールを行う。また44年ぶりに日本への一時帰国を果たした際、日本各地での講演において大菩提寺管理権返還の重要性を訴えている。 仏教僧集団に関する事業全印度比丘総本山建設事業1984年、佐々井は全インド比丘サンガ協会より、仏教の根本道場ならびに仏教徒の国際交流の場としての総本山をブッダガヤーに建設する委員に推薦された。この協会は、当時としては数少ない仏教僧組織のひとつであったが、上座部仏教僧の集まりであり、佐々井とは思想を異にしていたため、それまで互いの接触はなく、突然の人事であった。 当時の協会事務局長ダンマ・パーラや法首アーナンダ・ミトラは日本とも交流があり、佐々井を熱烈に支持。佐々井はこの計画の委員長となった。 しかし、事業は難航を極める。1985年11月半ば、ボンベイの州政府内務省より佐々井の強制退去命令が発令される。この頃佐々井は日本国籍であった。この2年前には国籍取得の嘆願書をマハーラーシュトラ州政府および中央政府内務省に提出していたにもかかわらず、事務処理は遅々として進まず、入国ビザはとうに切れていた。形の上では不法滞在となっており、それが俄かに取り沙汰され、急遽身を隠すことになった。 また翌年5月、大量の建築資材と金庫の中の資金および帳簿の一部が内部の者に持ち去られる事件が発生。 これらの問題をきっかけに協会内の佐々井反対派が勢いを増し、計画は頓挫した。 なおこの計画のために、真言宗智山派関東三山(高尾山薬王院、成田山新勝寺、川崎大師)や臨済宗南禅寺派明泉寺住職冨士玄峰らが中心のナグプール同友会、神戸市仏教連合会、神戸青年仏教徒会などから義援金が集められていた。この問題を振り返り、冨士玄峰は「失敗の原因は十分な計画性に欠けていたことです。ヒンドゥー組織の妨害もあり、だまされてしまったんですね。」と述べている[1]。 協会は1994年に佐々井他2名の追放を宣言している。 全インド比丘大サンガ(マハーサンガ)結成1992年、佐々井は自らを代表とする「全インド比丘大サンガ」を組織(正式な公表は1996年)し、前述の大菩提寺管理権返還運動へと繋がっていく。 著書
映像作品
備考関連項目脚注
参考文献
外部リンク
|