中里 (久喜市)
中里(なかざと)は、埼玉県久喜市の町名[4]。旧埼玉県北葛飾郡栗橋町大字中里[5]。郵便番号349-1112[2]。 地理久喜市東南部、中川と権現堂川の間の沖積平野に位置する[5]。地内の自然堤防上を東武日光線が南北に走り、南部の一部では幸手市との市座会に沿う。全域が市街化調整区域の水田及び畑作地の混在する農業地域[5]。北で南栗橋、北東で小右衛門、東で幸手市大字外国府間、南で幸手市大字高須賀、南西で幸手市大字松石、西で狐塚に接する。旧栗橋町に属していたため、現在の久喜市内では栗橋区域に属する。 河川湖沼歴史近世以前古くは下総国下河辺庄、島中河辺領[5][6][7]。江戸時代を通じて天領の葛飾郡中里村だった[7]。寛永年間以前は下総国に属し、寛永以降は武蔵国に属した[5]。この当時、村内は上・中・下の3つの小名に分かれていた[7]。用水は島川から取られ、助郷は日光街道栗橋宿に出されている[5]。米・麦・大豆等を産し、『武蔵田園簿』には中里新田として325石余、元禄郷帳以降は199石余が村高として書き残されている[5]。減少の原因は利根川の流路変更及び水害が考えられる[5]。中里村は近世以降権現堂川に沿って堤数20間の島中囲堤が建設されていたが水害が多く、明治時代以降も1890年(明治23年)、1910年(明治43年)、1947年(昭和22年)の利根川洪水で甚大な被害を受けている[5]。 明治以後明治元年(1868年)、下総知県事所轄となり、明治2年(1869年)には葛飾県に所属、明治4年(1871年)埼玉県葛飾郡中里村となり、1878年(明治11年)、郡区町村編制法施行により埼玉県北葛飾郡中里村となる[6]。1889年(明治22年)、町村制施行により北広島村・河原代村・北新井村・狐塚村・小右衛門村と合併し北葛飾郡豊田村の大字中里となる[6][5]。1944年(昭和19年)、戦時町村合併促進法により豊田村が同郡の栗橋町・静村と合併し北葛飾郡栗橋町の大字となるが、戦後の1949年(昭和24年)「行政運営の面で円滑を欠く」との理由から元の1町2ヶ村に分村、再び豊田村大字中里となる[5]。この1町2ヶ村は1957年(昭和32年)に再び合併し、栗橋町大字中里となる[6]。1999年(平成11年)北部の宅地として造成した部分を南栗橋として分離した[8]。2010年(平成22年)3月23日、栗橋町の久喜市・鷲宮町・菖蒲町への合併に伴い、久喜市中里となった[4]。 地名の由来二つの川(中川と権現堂川)の中間にある集落の意[5]。 世帯数と人口2017年(平成29年)10月1日現在の世帯数と人口は以下の通りである[1]。
小・中学校の学区市立小・中学校に通う場合、学区(校区)は以下の通りとなる[9]。
交通鉄道バス
道路
施設
脚注
関連項目外部リンク
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