コンスタンス・タルマッジ
コンスタンス・アリス・タルマッジ(Constance Alice Talmadge、1898年4月19日 - 1973年11月23日)は、アメリカ合衆国の無声映画時代の女優である。女優ノーマ・タルマッジ、ナタリー・タルマッジの妹である。 若年期タルマッジは1898年4月19日にニューヨーク市ブルックリン区の貧しい家庭に生まれた。アルコール依存症の父フレデリックは、タルマッジが幼いときに家族を置いて家を出た。残された母マーガレット(愛称ペグ)は、洗濯を請け負い、絵画教室を開き、化粧品の販売をするなどして生計を立て、3人の娘を育てた[1]。 ノーマをニッケルオデオン(映画館)で上映されていたイラストレイテッド・ソングのスライドのモデルにしてはどうかと友人から勧められた母ペグの決断により、姉のノーマは映画女優となった。そして、ペグが撮影現場にナタリーとコンスタンスも連れて行ったことから、2人も映画に出演するようになった[1]。 キャリアタルマッジは、既に姉のノーマが所属していたヴァイタグラフ・スタジオの1914年の短編コメディ映画"In Bridal Attire"で女優デビューした[1]。ノーマがメロドラマを得意としたのに対し、コンスタンスの得意分野は喜劇だった[1]。初めて主役を務めたのは、1916年のD・W・グリフィス監督の映画『イントレランス』の「バビロン編」の山の娘役だった[1]。グリフィスは、『イントレランス』が公開され各映画館に配給された後も、新しいシーンを追加撮影して再編集を繰り返していた。その撮り直し中のロサンゼルスのスタジオの楽屋にいたタルマッジを、映画評論家のグレース・キングスリーが見つけ、「あなたは本当にあの猛獣のような馬を操ったのですか?」と訊ねた。タルマッジは「確かにそうです。この前の夜、2人の女性が公会堂で私の後に座っていました。彼女たちは『当然彼女は自分であの馬を操ってはいない。誰が代わりに操縦したんだろう?』と言っていました。私がどうしたかわかる? 私は振り返って彼女たちに『私の膝をお見せしたいものです。あのチャリオットのダッシュボードに乗って、まだアザがあるのです』と言いました」と答えた。 タルマッジが演じた「山の娘」の人気が出たことから、1919年にグリフィスは、『イントレランス』のバビロン編を『バビロンの陥落』(The Fall of Babylon)という独立した作品として公開した。ただし、オリジナルでは山の娘の死のシーンで終わっていたのを、ハッピーエンドに改変した。 タルマッジの友人の女優・脚本家で、タルマッジのために多くの脚本を書いたアニタ・ルースは、タルマッジのユーモアとその「無責任な」生き方を高く評価した[2]。タルマッジはキャリアを通じて80本以上の映画に出演し、『緑の靴下』(1918年)、Happiness a la Mode(1919年)、Romance and Arabella(1919年)、『亭主の好きな』(1921年)、『浮気女房』(1922年)などの多くのコメディ映画に出演した。 キャリアの初期には、姉たちと共に多数の仕事の依頼を受けていた。1923年の"Blue Book of the Screen"に掲載されたタルマッジのプロフィールには、「身長5フィート5インチ(168センチメートル)、体重120ポンド(54キログラム)、ブロンドの髪と茶色の瞳、アクティビティが好きなアウトドアガール」とある[3]。 1920年、『グリーンブック』誌のライターからどんな話をやりたいのか訊かれたタルマッジは、次のように答えた。
引退後1929年にトーキーが登場すると、タルマッジはそれに挑戦することなく、人気絶頂のうちに映画界を去った。姉のノーマは数本のトーキーに出演したものの、三姉妹はほぼ同時期に引退した。タルマッジの出演作で現存するものはわずかである[1]。 引退後は不動産投資やその他の事業を行った。芸能活動で蓄えた莫大な財産と、3度の離婚による慰謝料により、生涯お金に困ることはなかった[1]。 晩年のタルマッジは、父と同様にアルコール依存症となり、友人やかつての俳優仲間たちとの交流も避けて引き籠もるようになった。1960年代に演劇プロデューサーのレナード・シルマンがタルマッジにブロードウェイ・ミュージカルへの出演をオファーしたが、「冗談でしょう? 私は映画スターだったときも演技はできなかったんだから!」と冗談を言ってそれを断った[1]。 タルマッジは肺炎のため1973年11月23日に死去した[4]。遺体はハリウッド・フォーエバー墓地に埋葬された。 ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのハリウッド・ブールバード6300番地にタルマッジの星がある。 私生活タルマッジは生涯に4度結婚したが、いずれも子供はもうけなかった。 最初の結婚は、ギリシャ人のタバコ輸入業者ジョン・ピアログルー(John Pialoglou)とのもので、1920年にドロシー・ギッシュ、ジェームズ・レニーとのダブル結婚式が行われた。ギリシャ国民であるピアログルーとの結婚により、タルマッジはアメリカ市民権を失った。2年後にピアログルーと離婚し、帰化申請を行ってアメリカ市民権を回復した[5][6]。 1926年2月にスコットランドの軍人のアラステア・ウィリアム・マッキントッシュ(Alastair William Mackintosh)と結婚したが、翌1927年に不倫を理由に離婚した。なお、マッキントッシュが再婚後にもうけた娘の子供が作家のエドワード・セント・オービンである[7]。 1929年5月にタウンゼント・ネッチャー(Townsend Netcher)と結婚し、1939年に離婚した[8]。1939年にウォルター・マイケル・ギブリン(Walter Michael Giblin)と結婚し、1964年に死別した。 フィルモグラフィ
脚注
参考文献
外部リンク
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